本の感想,  自伝

本田宗一郎 という生き方

2019年7月7~9日

 

「本田宗一郎という生き方

 

別冊宝島編集部 

 


 

1973(昭和48)年のはじめ、

藤沢は西田(本田元副社長)を通じ

 

「私はここらで退くつもりです」

 

と宗一郎に伝えた。

 

宗一郎は即答した。

 

「それならオレも辞める」

 

勇退が決まった後、

2人が顔を会わせることがあった。

 

こっちへ来いよと、

目で知らされたので、

一緒に連れ立った。

 

 

本田「まあまあだったな」

 

藤沢「そう、まあまあさ」

 

本田「ここらでいいということにするか」

 

藤沢「そうしましょう」

 

本田「幸せだったな」

 

藤沢「本当に幸福でしたよ、心からお礼を言います」

 

本田「オレも礼を言うよ、いい人生だったな」

 

 

本田宗一郎は決してエリートでも聖人君子でもなかった。

 

仲間や部下から「オヤジ」と呼ばれた男は生涯、

本社よりも現場、

スーツよりも作業用のつなぎを好んだ。

 

創業以来、

会社の経営危機は数知れず。

 

感情のままに部下を怒鳴り、

ひっぱたき、

工具を投げつける。

 

レースでは事故で何度も死にかけ、

操縦していた自家用航空機を墜落させたこともある。

 

そんな宗一郎を

「野人経営者」

と呼ぶ者もいたが、

あくまで本音と本質を貫き、

好きなことに没頭し、

自分の言葉で語り続けた荒々しい男の生涯は、

後の世の多くの経営者からたくさんの尊敬を集めている。

 

 

本田宗一郎は1906(明治39)年11月17日、

静岡県磐田郡光明村(現浜松市)に生まれた。

 

父・本田儀平は頑固な鍛治職人。

宗一郎の職人気質は父譲りである。

 

手のつけられない腕白小僧として育った宗一郎は1971(大正6)年、

自分の人生を変える強烈な体験をする。

 

曲芸飛行のスーパースター、

米国人のアート・スミスが浜松の練浜場で飛行ショーを開催することになったのだ。

 

何がなんでもそれを見たかった宗一郎は学校をサボり、

こっそり自転車を持ち出すと光明村から20キロ離れた山道をひたすら走った。

 

家からくすねてきた2銭では入場券が買えなかったため、

近くの高い松の木によじ登ってその曲芸飛行を見た。

 

空中を舞うアート・スミスの雄姿は、

少年だった宗一郎をメカニックの世界に引き込んだ。

 

時は経ち、

1922年、

16歳になった宗一郎は父が購読していた自転車専門誌「輸業世界」の広告に目を留める。

 

広告主は東京の「アート商会」。

自動車、オートバイの修理修善を手がけるとある。

 

あのアート・スミスから名ずけられた社名を見た宗一郎は、

すぐさま「弟子入り」を嘆願する手紙を書いた。

 

ここから宗一郎と自動車とのストーリーが始まる。

 

そして紆余曲折しながらも信念を貫き、

会社を日本が誇る大企業へと成長させた宗一郎。

 

その男に関する私が気に入ったエピソードを3つと、

宗一郎の豪快な話をいくつか紹介することにする。

 

 

♦︎エピソード1「握手の旅」

本田宗一郎が社長を退いたのは1973年。

トップを退いたカリスマ経営者の動向に注目が集まる中、

宗一郎がまず始めたのが

「握手の旅」

であった。

 

「社員、従業員にお礼が言いたい。

直接会って話したい」

 

宗一郎はそれを本当に実行した。

鹿児島県の隼人SF(サービスファクトリー)を皮切りに、

毎日クルマ、

あるいはヘリコプターを乗り継ぎ

数百キロを移動。

 

すべての従業員に語りかけ、

握手を求めたのである。

 

わずか5人しか従業員のいないSFもあった。

しかし宗一郎はたった5人の前で語りかける。

 

「社長を25年やらせてもらったお礼を言いたかったが、

やっと今日、

来ることができた。

第一線でお客様から文句を言われる立場だ。

つらいこともあるだろう。

でも、いまの本田技研があるのは君たちのおかげなんだ」

 

工場では、働く従業員が握手を求めてきた。

 

握手の前に、その手についた油を拭こうとすると、

宗一郎は構わず手を握った。

 

「いいんだよ。

俺は油の匂いが大好きなんだから」

 

そう言って宗一郎は手に自分の鼻を近づけて見せた。

 

従業員の目から涙が落ち、

それを見た宗一郎も泣いた。

 

人間が真に心を通じ合わせた瞬間だった。

 

この全国行脚の旅はその後世界にまで発展し、

3年がかりのイベントになった。

 

それは宗一郎の人生の中でも、

とりわけ濃密で幸福な時間であったに違いない。

 

 

♦︎エピソード2「宗一郎のユーモア」

宗一郎は「紳士の国」イギリスのジョークをしばしば紹介した。

与党の有力議員に対し、

野党議員が攻撃を加える。

「このごろ、

あなたは性病でお困りのようですね・・・」

 

すると与党議員はこともなげに答える。

「実はそうなんだ」

 

そしてこう続けた。

「この病気は、

君の女友達と交際してうつされたものだ」

 

こうして与党議員は見事に危機を逃れてみせた。

日本の議会であったならば、

「ふざけているのか」

と大問題になり、

一件落着とはならないかもしれない。

 

宗一郎はこのユーモアのセンスが日本にないことを嘆く。

 

単なる笑い話のようであるが、

宗一郎は

「ジョークの効用」

の重要性を説く。

 

それは世界に開かれた宗一郎の先進気質の表出でもあった。

 

「国際化の進んだ現在、

地球上のすべての国民と接していかなければならない時に、

日本古来の伝統だからと固執するわけにはいかない。

外国の長所をどんどん取り入れて、

一流の国際感覚を身につけなければならない」

 

これは宗一郎が戦前から唱えていたポリシーであった。

 

 

♦︎エピソード3「歪んだことが許せない性分」

宗一郎は何よりフェアで自由な市場経済を望み、

それを妨害する官僚や官僚的な人物に対しては

異常なまでの敵愾心を持って戦った。

 

1960年、

当時の通産省はあるひとつの法律案を準備していた。

それは「特定産業振興鱗次措置法案(特振法)」である。

日本の産業を保護し、

国際的な競争力をつけさせようとする狙いで、

この法案にはこれから新規に自動車(四輪)生産をはじめとする企業には

大きな制限をかけるという内容が含まれていた。

 

これに怒ったのが、

当時四輪の基礎研究を進めていた宗一郎である。

 

宗一郎は1952年の時点で、

輸入を制限するような鎖国的措置のバカバカしさを批判し、

それがいかに消費者と国内メーカーの発展にとって

不利益となるかを専門誌で主張している。

 

「われわれの技術の進歩は為政者によって指導されるべきではなく、

自ら進んで獲得すべきである」

 

しかし、

当然ながら通産省の方針は変わらなかった。

 

「話し合い」のために設けられた宴席で、

宗一郎は当時の通産省事務次官に怒鳴った。

 

「俺に四輪やらせたら必ず世界一の会社にしてみせる。

トヨタや日産を抜くのはわけがないんだ!」

 

すると次官も負けていなかった。

 

「たわけたことを!

鍛冶屋が自動車屋になるのに何年かかると思っているんだ!」

 

その後、宗一郎は自ら通産省に「お礼参り」の殴り込みをかけたが、

相手にされず、こう叫んだ。

 

「バカヤロー!

お前たち官僚が日本を弱くしてしまうんだ!」

 

宗一郎は後にこう語った。

 

「生まれてからあのくらい癪にさわったことはなかったね。

自分の商売の邪魔をすること、

上から押さえつけようとしたものに対してはあくまで抵抗したね。

また民間も悪いんですね。

何かあると一つご指導を、とこう言う。

自分の商売を官庁の人に指導されるような人はやめてもらったほうがいいな。

2度暴れましたよ。

あのとき私が暴れなかったら、

そのときの通産省に潰されている。

 

国のために特振法が必要だというが、

それは順序が逆だと言ってやった。

国民が幸福になるから国が栄えるんだ。

私は私の幸福のために全力をあげて自動車屋をやりたいんだ。

すると今度は合併しろという話はきた。

合併しろというなら通産省に株主になって言ってほしい。

通産省の言うことは聞かないが株主の言うことは聞きます、

と言ってやった」

 

結局、宗一郎の激しい抵抗もあってこの特振法は審議未了となり廃案となった。

当時、表立ってこの法案に大反対した大企業経営者は宗一郎を除いてほとんどいなかったが、

その孤軍奮闘ぶりは多くの庶民に支持され、

ホンダは四輪事業に参入する。

 

減点方式で人間を評価し、

創造性を否定する官僚組織との「バトル」に打ち勝った宗一郎であったが、

その後、

ホンダがさらなる成長を続けていく過程では、

自社の「官僚組織化」とも戦うことになる。

 

 

 

〜本田宗一郎 豪快物語〜

 

!税務署テロ襲撃事件!

アート商会時代、多額の利益を出していた同社に目をつけた税務署が、

脱税の疑いありとして宗一郎に出頭命令を出した。

多額の追微課税を命じられた宗一郎はムシャクシャした気分で酒を飲み始めたが、

どうにも腹の虫がおさまらない。

その場で腰をあげると仲間とともによるの税務署を「襲撃」。

近くの消火栓からホースを取り出すと、

大量の水をブチまけた。

スッキリした気分で引き上げた宗一郎であったが、

田舎の浜松ではあまりにインパクトが強すぎた。

「アート商会大暴れ」

翌日の新聞社会面にデカデカと記事が掲載され、

宗一郎の悪名は街中に知れ渡った。

 

!タイヤの首飾り!

1950年代にマン島TTレースを視察した宗一郎。

他の出場チームから、

非対称に溝が彫ってある滑らないタイヤを譲り受け、

「これで研究開発ができる」と喜んだ。

しかし帰国の段になって、

空港で「これは重量オーバーで別料金がかかる」と言われてしまう。

納得できない宗一郎はこう強弁した。

「何を言うか。これはただの首飾りだ」

宗一郎はタイヤを首に引っ掛けると、

平然と機内へ歩いていった。

羽田飛行場で出迎えた人々も、

首からタイヤをぶら下げた宗一郎を見て唖然としたが、

本人はいたって気にする風でもなかったという。

 

!実地経験者!

財界の要人として、

宗一郎が政府の売春対策審議会会長に選任された。

就任の挨拶で、学識経験者やエリート官僚たちを前にこう述べた。

「なぜ私が会長になったか不思議に思う方がいらっしゃるかもわかりませんが、

私は自分で有識者と思っております。

皆さんは学識経験者でいらっしゃいますが、

私の場合はただ、

実地の経験が豊富だったという理由で会長になりました」

 

また良家の結婚式に来賓として出席すると、

政治家が長々とスピーチするのに顔をしかめていた。

自分のスピーチの番になると、こうブチかました。

「いろいろ言いたいことがあるのだろうけれども、

新郎新婦はこれから深夜労働の超過勤務があるわけですから、

年寄りは早く帰ろうじゃありませんか」

 

 

ご覧いただいたように本田宗一郎という男は

とても人間味くさく、

愉快で、

ときに熱く、

ときにさらに熱く、

歪んだことはとことん嫌い、

そしてとことん自分の信念を貫き続けた、

とにかく豪快な男であった。

 

 

私も彼のように

温かく、愉快で、豪快に生きたい。

 

 


 

♦︎アクションプラン

 

・「やりたいことをやる」

宗一郎の言葉・・・

「人間は好きなことをしている時が一番輝き、

力を出すことができる。

その一方で、人間には誰しも得手、不得手というものがある。

なるべくであれば自分の好きなことをして生き、

不得意なことはそれが得意な人間に任せて生きる。

仕事において、

人生において、

そうした相互補完的な人間関係が実現できれば、

これほど幸せなことはない」

 

・力の限りありったけの挑戦する

宗一郎の言葉・・・

「何か発明しようと思って発明する馬鹿がいたらお目にかかりたい。

自分が困ったときに、

それを解決するために知恵を出すのが発明といって差し支えないでしょう。

困らなきゃだめです。

人間というのは困ることだ。

絶体絶命に追い込まれた時に出る力が本当の力なんだ。

人間はやろうと思えばたいていのことができる」

 

・待たない。こっちから突っ込んでいく。

宗一郎の言葉・・・

「食糧のように一定の需要があって供給がリードされる場合を除き、

需要というのははじめからそこにあるものではない。

アイデアと生産手段によって作り出されるものだ。

これは仕事にも人生にも言える」

 

・オール120%

本田宗一郎の言葉・・・

「いいか、あの連中はな。

俺たちより実入りは少ないけれども、

乏しい中から月賦でドリームを買っているんだ。

オレたちはああいう若者からもらうお金を積み重ねて、

工場を経営したり部品を買ったりしているんだ。

お前は1000代に1台なら不良品があってもいいと言うけど、

あの若者にとっちゃ1台の中の1台よ。

100%の不良品ってことだ。

だからオレは100%じゃない、

120%の良品と言うんだ。

お客さんの1人ずつの満足を積み重ねなけりゃ、

ホンダなんてやっていけないんだ」

 

・ユーモアの感性、表現を磨く

 

・暴れるときは豪快に

 

 

 

以上

 

 

今日も

最後まで読んでくれてありがとう。

 

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