伝記,  本の感想

エイブラハム・リンカン

2019年7月5~6日

 

「エイブラハム・リンカン」

 

伝記 世界を変えた人々

 

 


 

「88年前、

我々の祖先がこの地に、

人間はみな平等であるという思想に基づいた、

新しい自由の国を築きました」

と、リンカンのスピーチは始まった。

 

「そして今我々は、

その国、

あるいは、

そのようにして生まれ、

そのような思想に捧げられた国が、

どれほど耐え抜いていけるのか、

南北戦争という試練にさらされています。

 

我々はその戦争の、

大いなる戦闘のあった地にこうしてあいまみえています。

 

そうしてこの国が生き続けていけるよう、

この地で命を捧げた人々に、

その戦場の一部を永遠の眠りの場として献上しようと、

今日、集まりました。

 

これはいかにもふさわしい行為です。

 

しかし、

もっと大きな意味では、

この地は、

奉献することも、

神聖化することも、

清めることもできないのです。

 

この地で戦った勇敢なる男たちが、

生ける者も亡くなった者も、

我々の貧しい力では遠く及ばないほど、

この地を神聖なものにしたからです。

 

世界は我々がここで述べたことになど、

ほとんど注意を払わないことでしょう。

 

また、

すぐに忘れてしまうことでしょう。

 

しかし、

彼らがここで行ったことは、

決して忘れられることはありません。

 

むしろ、

この地で闘った彼らが気高くも推進し、

まだ未完になっている仕事を、

我々生きている者が身を捧げて受け継ぐべきであります。

 

名誉ある戦死者が、

最後の最後まで身を呈して守り抜こうとしたもの、

我々はそれをさらなる献身を持って、

やり抜かねばなりません。

 

彼らの死を無駄にしないために、

この国が神のもとで、

自由の国として新しく生まれるためにーーー

 

人民の、人民による、人民のための政府が

地球上から消えてしまわないように、

やり抜くことをを強く決意するものであります。」

 

これは1963年11月19日、

南北戦争で亡くなったの連邦側の戦没者墓地開所式での

アメリカ合衆国至上、

もっとも有名である第16代大統領

エイブラハム・リンカンのスピーチである。

 

 

エイブラハムはもともと丸太小屋に生まれた農家の息子だった。

父は農家の息子として育てている息子が勉強することには良い顔をしなかった。

子どもの頃はほとんどいつも父の畑仕事を手伝って過ごし、

学校には1年しか行かなかった。

それでも外の世界を知りたくてたまらなかったエイブラハムは、

わずかにあった本を繰り返し読みふけった。

全部読んでしまうと、

最初から読み直すということを何度も繰り返した。

また、畑で作業をしているときも、

うねをつける合間に、読書をした。

 

住居の環境は決して良くはなく、

床がなく土がむき出しだったり、

三方しか壁がなくその壁がない面で焚き火をして、

寒さを凌いだりもした。

 

そんなエイブラハムが実際に奥地の学校で受けた教育は、

農作業の合間にひと月、

またしばらくしてひと月といった具合に、

なんとも中途半端なものだった。

全部合わせても、

教室で過ごした時間は1年にも満たなかった。

 

しかしエイブラハムはそれで十分だと思った。

当時の環境で大事になことは、

なんと言っても、

人の誕生と死、

それに収穫だった。

 

そしてエイブラハムにとって大事なことは労働だった。

それも骨の折れる畑仕事、

近所の農家で働くと、

一日に25セントの報酬が出る仕事。

 

この頃には、エイブラハムは父に憎しみに近い気持ちを抱くようになっていた。

でもどうすることもできなかった。

彼が稼いだお金は自動的に父親のものになる。

そういう法律だった。

21歳になって初めて独立して、

自分の給金を自分のものにできるのだ。

 

1930年、

エイブラハムが21歳になった。

もうたくさんだった。

 

1931年の春、

雪解けとともにエイブラハムはその地を去り、

とある集落に流れ着いた。

 

 

彼は辺境の開拓者という家柄のため

すんなりと町にもとけ込んだ。

 

リンカンは身長が193センチもあり、

驚くほど強健だった。

 

町一番の乱暴者と喧嘩をして暴れ者の対象になり、

店番として働くようになった雑貨店では

仕事中おかしな話を聞かせて、

客を大笑いさせた。

 

ただ酒は飲まなかった。

町の人たちは彼を暴れ者だと思っていたが、

そのイメージと違うのは、

酒を飲まないということだけではなかった。

 

リンカンは医者や学校の先生など、

町で教育を受けた者のみで行う討論会のメンバーに入ったのだ。

 

討論会の会員たちは新参者のリンカンをバカにした。

ところが、

この乱暴者の店番は、

生まれながら第一級の雄弁家であることがわかり、

みんなはびっくり仰天した。

 

自信を持ったリンカンは昔やっていた独学を再開した。

数学を勉強し、

英語も一生懸命にやった。

自分が書いたり話したりしている言葉の文法も勉強した。

 

そして23歳の時、

政治の世界に入った。

 

討論会のメンバーは政治の話が好きで、

リンカンは聞き耳を立てた。

 

政治をやっている人は出世が早そう、

うまくいくかもしれない、

とリンカンは思った。

 

というわけで1932年、

エイブラハム・リンカンはイリノイの州議会議員に立候補した。

当選はしなかったが、

また立候補してみたいと思った。

 

そしてその次の1934年の選挙で運良く当選し、

その冬、

州議会が召集されると、

その中には、

痩せた顔の、

くしゃくしゃの髪の大男が混じっていた。

 

そしてリンカンの目は、

じっと未来を見つめていた。

今度は弁護士になろうと決意したのだ。

 

リンカンは国の統治の基本となる、

アメリカ合衆国憲法を熱心に勉強した。

 

リンカンはまた、

独立宣言もじっくり読んだ。

 

1776年に、

アメリカを築いた人々がイギリスから独立した時に、

英国王ジョージ3世に宛てて書いた素晴らしい文章だ。

 

「人間はみな平等であり、

生命と自由と幸福の追求を含む、

譲渡され得ない権利を創造主から与えられていることは、

自明の真理である」

 

と前文にあった。

 

リンカンはこの言葉を一生忘れなかった。

 

リンカンは独学をもう一歩進めることにした。

1834年には議員として自分も法律を作る立場になったリンカンは、

手に入るあらゆる法律書を借り、

真剣に法律の勉強を始めた。

 

3年後の1837年3月、

28歳のリンカンは弁護士の資格を取った。

 

そして4月、

この地ニューセイライムをあとにし、

運を試そうと、

イリノイの州都、

スプリングフィールドに向かった。

 

友人の法律事務所で仕事をすることになっていたが、

住むところはなく、

お金もほとんど持っていなかった。

 

たった7ドル、

これではベッドも買えないぐらいだ。

 

しかし最初から運に恵まれた。

ベッドを買おうとした店の主人が、

むっつりとした、

背の高いリンカンを気に入り、

店の上の部屋をタダで貸してくれることになった。

リンカンはそこに落ち着いた。

 

雄弁で頭の切れるリンカンは、

そのうちに一級の弁護士であるという評判がたった。

 

そして1939年、

30歳の時、

リンカンは町でも一番お金持ちで素敵な娘さんの一人と恋に落ちた。

 

ケンタッキーにあるその実家は大金持ちの名門で、

家族は黒人奴隷にかしずかれて暮らしていた。

 

リンカンの父もケンタッキーの出身だったが、

その地の人間にしては珍しいことに、

奴隷制度は良くないと思っていた。

この点は息子であるリンカンも同じだった。

 

リンカンは自分の貧しい過去をひどく恥じていて、

このあと何年も、

昔のことを忘れようと、

一生懸命だった。

 

もっとも新婚のふたりの家庭も、

はzめは宿屋の2階の1部屋を借りたもので、

大したものではなかった。

 

でもしばらくすると、

やり手の弁護士だったリンカンは、

苦しい生活とは完全に決別した。

 

1844年になると、

リンカンは増えた家族とともに、

鎧戸と素敵なバルコニーのある、

しゃれた板張りの屋敷に移った。

 

そしてリンカンは、

政治の舞台でこれまでの最大の勝利をおさめた。

1846年、

地域の有権者の3分の2の支持を集めたリンカンは、

合衆国の下院議員となったのだ。

 

今日、

アメリカは東の大西洋から西の太平洋まで広がっている。

約2億5千万という、

世界で3番目の人口を抱えた、

大きな国だ。

 

当時リンカンの時代のアメリカはこうではなかった。

1800年代はじめ、

リンカンが生まれる少し前だが、

人口は530万人で、

国土も今のアメリカ全土には及んでいなかった。

 

1770年代にイギリスの支配に抵抗して独立した人々はみな、

ヨーロッパの人たちが築いた、

東海岸の13の州に住んでいた。

 

人口が増えるにつれ、

アメリカの人たちは13の州から西へ西へと、

辺境を目指すようになった。

 

開拓された地域の人口がある程度の数になると、

そこは州として認められた。

 

リンカン一家も、

この西への開拓に深くかかった。

 

運を試そうと、

バージニアからケンタッキーの地へと赴いたのだ。

 

そこはもともとアメリカに住んでいた、

インディアン(ネイティブアメリカン)たちが

懸命に守ろうとして戦っているところだった。

 

リンカンの祖父にとっては、

これは不運な移動だった。

 

インディアンに殺されてしまったのだ。

 

イギリスの植民地だった頃から、

13の州はそれぞれが随分と異なっていた。

 

そしてアメリカの国境が西へ西へと移動するにつれ、

こうした違いも大きくなっていったが、

一番大きな違いは、

北部の州と南部の州の間にあった。

 

豊かな土と、

暖かく湿った気候の南部の州には、

プランテーションと呼ばれる大きな農園ができた。

 

南部の人たちが理想としていた生活は、

エレガントで、

洗練された、

社交的な、

イギリス人の地方貴族暮らしだった。

 

乗馬などの野外活動や、

読書や音楽といった屋内の楽しみを、

思いのままに味わえるだけの暇とゆとりのある生活だ。

 

それに対して北部の人たちは、

これとは違った生活信条を持っていた。

 

真剣で、

一生懸命働くこと、

教育、

民主主義、

そして平等といったことに価値を置いて暮らしていた。

 

1770年代にイギリスからの独立運動を率いたのも、

北部のマサチューセッツ州だった。

 

イギリスか独立したアメリカには、

現金が必要だった。

そのためには何かヨーロッパに輸出する商品がなければならない。

 

そしてそれはすぐに見つかった。

ーーー綿だ。

 

綿というのは、

ワタの実の種の周りに生えている、

ふわふわした白い毛(綿花)を採取したもので、

ワタは暖かく湿った気候のもとでよく育つ。

 

アメリカでは北部の州は、

寒くて乾燥しすぎていたが、

南部の畑ではまるで”雑草”のようによく育った。

 

そして大西洋の向こうのヨーロッパには、

その”雑草”からできる、

安くて丈夫な布を欲しがっている人たちがたくさんいた。

 

ヨーロッパにはアメリカの綿を受け入れる市場、

そしてそれを加工する機械も発明された。

ーーー新しい紡績機だ。

 

あちこちに紡績工場がどんどんできていた。

実は、ヨーロッパはヨーロッパで、

産業革命という大きな変貌の時を迎えていた。

 

アメリカの南部は好機を見逃さなかった。

一度はタバコと米の生産でお金を稼いだ南部は、

1790年代半ばになると、

今度は綿花栽培に乗り出した。

 

景気は良く、北部の州にもお金が流れ込むようになった。

 

産業革命が始まったイギリスと同じように、

アメリカ北部は工場、

銀行、

それに企業を抱えた、

豊かな工業地帯になっていた。

 

工場では、

綿織物とそれを作るための機械の両方が生産された。

 

銀行は南部の綿花栽培社にお金を貸し、

北部の企業な南部と膨大な外国市場との取引を行った。

 

南部の”綿花王国”は、

アメリカのすべての人に富と発展をもたらしたのだ。

 

ただし、

”自由の身”であるすべての人に。

 

アメリカの建国者たちは、

人間はみな平等であるという思想を掲げていた。

 

が、

リンカンが下院議員になった頃には、

300万人の人たちが、

法的には動物として扱われる国になっていた。

 

それは黒人奴隷だった。

アメリカに奴隷として売られてきた、

アフリカの人々とその子孫だ。

 

大西洋を股にかける人身売買は、

随分前から行われていた。

 

その歴史は、”綿花王国”よりも、

アメリカの国そのものよりも古いものだった。

 

奴隷制度は13の植民地では、

1600年代のはじめから行われていたのだ。

 

奴隷商人たちは200年以上にも渡って、

アフリカの人たちを、

家族から、

祖国から引き離し、

説明するのも恐ろしいような地獄へと突き落としてきたのだ。

 

説明するもの恐ろしいような地獄

ーーーそれに耐えて行くのは、

それはもう大変なことだった。

 

アフリカ沿岸の奴隷移住地から、

西へ行く木造の帆船に押し込まれた何百万人のうち、

生きて目的地に着くこともできない人がたくさんいた。

 

捕まった人たちの苦しみは、

悪臭に満ちた船底の貨物室に閉じ込められた時から始まるのだ。

 

奴隷が男の場合、

空を見るのも外の風に当たるのも、

この時が最後だった。

ーーー3ヶ月後にアメリカに着くまでもたない者もたくさんいた。

 

成人の奴隷ひとり当たりにあてがわれたスペースは、

高さ75センチ、

幅38センチ、

長さ2メートル足らずだった。

 

子供はもっと狭いところに押し込まれた。

 

女性と子どもは、

普通、

昼間はデッキに出ることを許されていたが、

男性は一度詰め込まれると、

棺桶よりも狭いところから動けなかった。

 

そこで彼らは、

食事をし、

眠り、

目を覚まして、

吐き、

苦痛にまみれて排泄し、

高熱に悶え、

発狂し、

ときには、

死という形で救われた。

 

あまり苦しいため、

男も女も死にたいと思った。

 

チャンスさえあれば、

海に飛び込んで、

喜んで死んだ。

 

でも、

ほとんどの人たちが、

鎖に繋がれたまま、

悪臭に満ちた暗闇の中で死んでいった。

 

一方、

そこで生まれる者もいた。

 

ある船医は、

「死体に鎖で繋がれたまま」の女奴隷が、

赤ちゃんを産み落とすという衝撃的な光景を目にした。

 

奴隷船の船長は、

はじめから”積み荷”の8分の1は途中で失うものと考えていた。

 

でもアメリカについた船の中には

元の半分の人数になってしまったもの、

場合によってはそれよりも少ないものもあるほどだった。

 

アメリカにたどり着けなかった人たち

ーーー気が狂ったり、死んでしまった人たちは、

役に立たなくなったものと同じ運命をたどった。

 

すなわち、

乗組員によって海に捨てられてしまったのだ。

そのため大西洋を渡る奴隷船の後には、

サメがずっとついてまわった。

 

アメリカの奴隷商人もイギリスの奴隷商人も、

このいまわしい商売でお金持ちになった。

 

それが1800年代はじめに、

イギリスの奴隷制度廃止論者たちの活動によって、

イギリス船を使っての奴隷の売買が禁止になった。

アメリカもそれに習った。

 

しかしこの禁止の取り決めは、

奴隷商人の不利益になるどころか、

逆に儲けを増やしただけだった。

 

綿だ。

 

この綿がすべてを変えてしまっていた。

 

黒人奴隷なしでは綿花の収穫はできない。

南部の農園主の富も、

イギリス貿易も、

すべて、

綿を植えたり、

草を刈ったり、

そして綿花を摘んで、

摘んで、

摘みまくるという、

奴隷の労働に頼っていたのだ。

 

”綿花王国”の犠牲者の輸入は、

違法になった。

 

しかし、

奴隷商人は全く平気だった。

 

彼らは法律を嘲笑い、

違法な”積み荷”がもたらす利益の増加にほくそ笑んだ。

 

リンカンが下院議員になった年には、

健康な奴隷はひとり2500万ドル(約25億)で売られていた。

 

奴隷商人たちは、

大西洋を渡るたびに、

億万長者になっていったのだ。

 

違法で、

血に汚れた利益を上げる、

このいまわしい商売は、

延々と続いた。

 

奴隷の大部分は、

壁の穴を隙間風が吹き抜け、

床は土のままという、

家畜同然の窓のない部屋に住んでいた。

 

ベッドや椅子、

調理器具を持っているのは、

ほんの一部の奴隷だった。

 

ほとんどの者は、

牛のように床のわらの上で寝起きしていた。

 

奴隷所有者たちは、

奴隷を末長く自分たちの支配下に置いておくため、

ありとあらゆる手段を講じた。

 

例えば、

奴隷にはものを売ったり買ったりすることを禁じた。

読み書きも習ってはいけないし、

結婚もできない。

 

何と言ってもひどいのは、

主人の許可なしに外出することができないことだった。

 

土地と同じで、

奴隷は主人の財産の一部だったのだ。

 

自分がどこかに行くということは、

主人からものを盗むことと同じだった。

 

ここでも罰としてむち打ちが行われていた。

ーーー罰としてはそれでも一番軽いものだった。

 

主人たちは、

奴隷を殺してはいけないことになっていたが、

実際には誰もが見て見ぬふりをして、

奴隷は鞭打ちにあって殺されたり、

殴り殺されたり、

ときには焼き殺されたりもした。

 

その他にもまるで鍋釜や家具のごとく、

奴隷の競売場での売買をして

お金の代わりに使う者もいた。

 

また奴隷が恋をし、

子どもを産み落とすと、

その黒人女性たちをまるで

コンクールに入賞した雌馬や雌豚と同じような目で見た。

 

つまり、

9ヶ月に1度、

持ち主の富を増やしてくれる、

”繁殖のための道具”だ。

 

奴隷たちは何をしようと、

どんなに愛し合っていようと、

持ち主が別々の買い手に売れば、

自分たち家族はもう2度と会えなくなるかもしれない、

という重苦しい不安から逃れることはできなかった。

 

自由の身にしてもらえた奴隷もいたが、

このいまわしい生活から逃れる道は2つしかないことを、

奴隷なら誰でも知っていた。

1つは死だ。

ーーー自殺する奴隷はたくさんいた。

 

もう一つは、

北部。

何年も前から奴隷制度が禁止されている、

民主的で工業化した北部へ逃亡することだ。

 

北部の州では奴隷制度を禁止していたが、

北部の人たちは、

感情的には複雑なものがあった。

 

北部の人間は、

黒人奴隷を解放するという考え方は支持していたが、

北部の町で白人と黒人が隣り合って暮らす、

という考えは好きになれなかった。

 

それでも心から奴隷制に反対している北部人もいて、

その数も増えていった。

 

欧米諸国の間に、

新しい思いやりの気持ちが広がっていたのだ。

 

キリスト教も、

独立宣言も、

人間はみな兄弟だと説いている、

それなのに奴隷制度はこれに反する、

と彼らは主張した。

 

すべての州が一体となった”連邦(連合国家)”であるアメリカ、

つまりアメリカ合衆国という、

名前自体が「一体」というメッセージを持っている国を、

分割してしまうのが奴隷制だ。

 

南部の人間もまたこれを黙って見ていたわけではなかった。

一時は1820年に北部と南部の間に

「ミズーリ協定」

が結ばれ安定したかと思いきや、

やがてこの対立は深まり、

大きな政治的対立へと発展していく。

 

そんな混沌した時代の中、

1860年11月6日に、

リンカンは大統領に当選した。

 

そして溜まり溜まった北部と南部の圧迫した緊張は破裂した。

 

1861年4月12日、

南軍は、

サウスカロライナのチャールズストン港にある連邦側の基地を砲撃した。

 

南北戦争が始まったのだ。

 

この戦争はアメリカをそれまで欧米世界が経験したことのないような、

血みどろの、

恐ろしい抗争へと巻き込んでいった。

 

戦死者50万人、

負傷者50万人という数字は、

飛行機や近代兵器なしで戦われた戦争としては、

最大のスケールのものだった。

 

リンカンはこの間に立たされた。

 

リンカンはどちらの言い分も理解できた。

 

人間としては、

奴隷制度廃止論者に賛成だったのだが、

政党間の協定の事情等もあり、

政治家として北部の要求を一方的に容認するのは「ダメだ」と言わざるをえなかったのだ。

 

しかしそんな政治家としてのリンカンも

徐々に奴隷制度廃止論者の主張に賛同し始めていった。

 

そしてたくさんのことが起き、

ここでは伝えきれないほど悩みに悩んだリンカンだったが、

1863年1月1日、

震える手で、

奴隷制を廃止する奴隷解放宣言に署名した。

 

それからも激しい戦いは続いた。

リンカンはこの間も自分の信念に従い、

大統領としての役目を全うした。

 

そして1865年4月9日、

ついに南軍が降伏した。

 

100万人以上にも及ぶ死傷者を出した

南北戦争が終わったのだ。

 

 

ホワイトハウスのリンカンの次の仕事は絶え間なくやってきた。

 

戦争によって荒れ果てた国を立て直すことだ。

 

そして反逆した州の人々に、

これまでとは全く違った生き方、

ーーー奴隷なしの暮らしを受け入れてくれるよう、

説得しなければならない。

 

それは大変な仕事だったが、

リンカンの決意は固く、

そして”平和的に”

平和を勝ち取るつもりだった。

 

つまり、

「誰に対しても悪意なく、

すべての人に思いやりを持って」

行わねばならない。

とリンカンは主張した。

 

 

戦争が終わって数日が経ち、

4月14日になった。

 

キリスト教の大きな祭典、

復活祭の前の聖金曜日、

リンカンは妻のメアリと

「アメリカのいとこ」

という喜劇を観にいった。

 

夜8時が少し過ぎ、

リンカンとメアリは馬車に乗り込み、

友人ふたりを途中で拾うと、

劇場に着いたときには芝居はもう始まっていた。

 

しかしリンカンたちが入っていくと、

観客が総立ちになって、

拍手で迎えてくれた。

 

リンカンたちのボックス席の外では、

ボディーガードがしばらく見張りをしていた。

 

それから信じられないことだが、

ボディーガードたちはどこかへいってしまった。

 

そうこうするうちに、

芝居はどんどん面白くなっていった。

 

第3幕になると、

全員の目が舞台に釘付けになった。

 

 

そしてそのとき、

銃声が響いた。

 

 

一瞬、世界が凍りついた。

 

合衆国大統領が椅子にもたれかかるように、

横たわっていた。。。

 

リンカンは意識不明のまま病院へ運ばれた。

 

そして1865年4月15日、

土曜日の午前7時22分、

エイブラハム・リンカンは亡くなった。

 

アメリカ大統領として暗殺されたのは、

リンカンが初めてだった。

ーーー最後ではないが。。。

 

リンカンが死んだその週までに、

1863年の奴隷解放宣言と連邦軍によって、

350万人の奴隷が自由になった。

 

そして、

まだ生きているうちに、

リンカンは解放計画をさらに大きく前進させていた。

 

リンカンは、

平和が訪れれば、

自分の戦時中の宣言が覆される可能性があることを知っていた。

 

それに、

奴隷解放宣言も反逆した州において、

奴隷を解放しただけで、

他の州ではまだだった。

 

そこでリンカンは、

再選されるとすぐ、

合衆国全土で奴隷制を禁止する新しい法律、

憲法の修正条項を、

議会に提出した。

 

1865年1月、

連邦議会はリンカンの提案に賛成した。

 

「奴隷制度も本人の意に反する苦役も、

法律にのっとって、

有罪判決を受けた犯罪者に対する処罰の場合を除いては、

合衆国においては存在してはならない」

 

この憲法にのっとって法律が制定されれば、

アメリカの奴隷を全土で解放することになるのだ。

 

さらに、

リンカンが計画していたのは、

それだけではなかった。

 

南北戦争の少し前、

合衆国の最高裁判所は、

黒人は自由の身でも、

アメリカ市民ではなく、

市民になることもできないという判決を下した。

 

が、リンカンと南北戦争が、

最高裁が間違っていることを示した。

 

リンカンが次に目指していた改革は、

黒人たちをアメリカ社会の正式な一員として迎えようというものだった。

 

重要な鍵は選挙権だった。

そして1870年に、

議会はまた重要な憲法修正条項を通過させた。

 

「合衆国人民の投票する権利は、

人種、肌の色、

あるいは以前奴隷であったことを理由として、

合衆国および州によって拒否されたり、

奪ったりできないものとする」

 

とういうわけで、

1870年には、

アメリカ合衆国で奴隷制は廃止され、

”法律”のもとでは、

黒人も白人と同じ権利を有することになった。

 

ーーー少なくとも、

”法律”ではそう定められた。

 

しかし、

南部の州は、

わざと、

そして公然と、

法に背いた。

 

南部の白人たちは自分たちの法律でもって、

リンカンの法律を無効にすることができることに、

気がついたのだ。

 

南部の黒人たちは、

南北戦争とリンカンがもたらしてくれた恩恵が、

どんどん切り崩れていくのを、

絶望的な思いで眺めていた。

 

北部に向かった黒人もたくさんいた。

でも事態は大して変わらなかった。

 

労働組合も黒人の加入を歓迎しなかった。

 

黒人たちは一番安い賃金の仕事にしかつけなかった。

 

町の中でも一番みすぼらしくて、

悪名高い地域にしか住めなかった。

 

またとある組織、

通称K・K・K(クー・クラックス・クラン)

という、

残忍なリンチで黒人を震え上がらせ、

白人の優位を守る組織も存在していた。

 

このKKKが北部まで迫ってきたりもした。

 

1880年代から1919年までに、

KKKは、

平等を主張した黒人を3000人ほども、

リンチにかけた。

 

事態は暗い様相を見せていたが、

変化も起きていた。

 

アメリカの黒人のための真の自由な権利を勝ち取るための、

強力な組織も出てきた。

 

黒人指導者も出た。

 

そして20世紀も進み、

時が進んでいくにつれて、

黒人の地位や力は向上していった。

 

 

1936年8月28日、

リンカンの奴隷解放宣言から1世紀、

25万人のアメリカ人が宣言から100周年を祝うために、

ワシントンに行進した。

 

公民権運動の偉大な指導者、

マーティン・ルーサー・キング牧師に率いられて、

人々は、

自分たちを解放した男のために建てられた記念堂の周りに集まった。

 

この日、

キング牧師は、

生涯最高の演説をした。

 

「私には夢がある」

とキング牧師はいった。

 

「国民が立ち上がり、

『人間はみな生まれながらにして平等であることは自明の真理である』という、

この国の信条を身をもって実行する日が、

いつの日にかくるという夢がある。

 

いつの日にか、

ジョージアの赤い丘陵で、

元奴隷の息子たちと、

元奴隷所有者の息子たちが、

兄弟として同じテーブルにつくという夢がある。

 

いつの日にか、

ミシシッピ州さえ、

自由と正義のオアシスとなるという夢がある。

 

いつの日にか、

私の4人の幼い子どもたちが、

肌の色ではなく、

人格によって判断される国に暮らすことになる、

という夢がある。」

 

このスピーチから5年もしないうちに、

キング牧師は暗殺者の犠牲となって死んでしまう。

 

でもその頃には、

キング牧師の夢は実現に向かって一歩前進していた。

 

そしてこの運動はずっと、ずっと続いていく。

 

 

今日では、

周知のとおり、

公職に就く黒人もどんどん増え、

黒人を阻んでいた障害を乗り越え、

よい仕事、

よい住居、

そして

よい生活を手に入れる者もどんどん増えている。

 

しかし、

同時に現実として、

アメリカの黒人は白人より相変わらず貧しく、

1990年にヒューストンで国際サミットが開かれたときも、

クー・クラックス・クランがその不気味な装束と主張を掲げて、

行進した。

 

その頭上では、

かつて南部を南北戦争へと駆り立てた、

南部連合旗がはためいていた。

 

 

そして今日もまだ、

自分が1世紀以上も前にはじめた大いなる仕事が完成するのを、

亡きリンカンは待っている。

 

 

ご覧いただいたように

リンカンは幼い頃の恵まれない境遇なんかには屈さず、

己の忍耐と努力、

そして勇気によって、

大いなる扉を開いた。

 

今日、

普通だと、

常識だと考えられていることでも、

実現するための過去を辿れば、

このような辛い歴史や、

そのために命を懸けて戦ってきた人たちが

何億といるのだ。

 

過去たくさんの勇気ある人たちのおかげで

我々いまこうしてブログを読んだり、

アイスを食べたり、

仕事の愚痴を言ったり、

友だちと笑ったり、

夢の話をしたりと

平穏な時を過ごせているのだということを

一度考えた方がいいだろう。

 

そして、

私たちも未来の自分の子どもたちに

さらにより良い、

より素敵な世界を生きてもらえるように、

勇気ある一歩を踏み出していきたい。

 

 


 

♦︎アクションプラン

 

・境遇や環境はさほど関係ない。

今自分のできる最大の努力をすれば、

その大きな野心は叶えられる。

とにかくやるしかない。

 

・「一歩」を踏み出さなれば何も実現できない。

勇気を出して、

覚悟を決めて、

大いなる夢には大いなる覚悟がともなう。

死を恐れるな。

覚悟を決めて一歩を踏み出せ!!

 

・過去の歴史に感謝しろ。

今立っているこの土は全て過去の人たちの、

勇気と忍耐と命が積み重ねだ。

全身で噛み締めて生きろ。

 

・世界をより良い未来に導くために一心に行動してごらん。

想像もできないほど莫大なエネルギーに守られるから。

 

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。

 

 

 

 

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