伝記,  本の感想

アインシュタイン

2019年3月10~12日

 

「アインシュタイン」

 

伝記 世界を変えた人々

 

 


 

こんばんは。

本日の投稿は題名にもある通り、

「アインシュタイン」についてです。

 

これは本を読んだのが2週間くらい前になってしまうので

少し思い出す作業が必要です。

 

では早速。

 

「アインシュタイン」

この名前を聞いて真っ先に思い浮かぶものといえば、

「相対性理論」もしくは、「E=mc2乗」ではないでしょうか?

 

せっかくなのでその相対性理論の一部分を抜き出してご紹介します。

一般相対性理論が発表されるまで、

当時の科学者たちは、

「光は常にまっすぐ、直線的に進む」

のだと考えていた。

 

しかし、アインシュタインの理論はというと、

「光はある一点から一点までの一番短い道すじを進む。

大抵の場合、その最短距離は直線になるが、

太陽のそばを通るような場合は、

曲がってしまう」

というものだ。

つまりどういうことかというと、

「最短距離を進むはずの光が、

この場合だけ曲線の進路をとるならば、

それは空間そのものが曲がっている」

ということだ。

 

これは実に画期的な考えであるとともに、

当時の物理学の基本法則に

真っ向から対立するものでもあった。

 

のちに、本件に関しては

どちらの意見が正しいのかということは

周知の事実である。

 

彼は自然界全体についての人々の考え方をすっかり変えたとともに、

それまでの科学理論に挑戦し、

他の科学者たちを何世紀もの間悩ませていた問題を解決する、

新しい理論となった。

 

そのほかにも、

「時間の進み方は誰にとっても同じものではない。」

ということであったり、

核エネルギー等の量子力学のことなどなど、

とにかく数多の発見により、

物理学、科学の発展に大きく貢献した人物である。

 

 

そんな彼は、

1979年3月14日(金)、

ドイツ南部の賑やかな町、ウルムに生まれた。

幼児期、彼は彼の母親の心配の種となった。

頭の形が普通と違っている上に、

言葉を喋り始めるのも遅かったため、

ちょっとして知的障害児ではないかと思われたからであった。

 

しかし、アルバートはすくすくと健康的な体に育っていった。

ただ、集団で行うスポーツは、

疲れてめまいがするといって、

嫌っていた。

 

無口で一人でいることが好きな子供だった彼は、

読書や音楽鑑賞が好きだったのだ。

また彼は今季のいるゲームに

何間時間も没頭していることがよくあった。

 

彼は意志が強くて、勇気・決断力があるが、

感受性もまた豊かだった。

こんなエピソードがある。

ある日、両親はアルバートを軍隊のパレード見物へ連れていった。

しかし、アルバートは

パレードを見るなり、

突然泣き出してしまったのだ。

理由としては、

「あんなにもたくさんの人間が、

感情を持たない機械のように並んで行進しているのを見て、

ゾッとしたからだ。」

と言われている。

このことが表現しているように、

アルバートは感情も豊かで、

とても優しい人物だった。

 

 

上述したように

彼は幼少期から知的好奇心旺盛で、

時にはそれが原因で

先生や周囲の人間が敵になってしまうこともあった。

 

しばらく月日は流れ、

アルバートは大学の教師となり、

やがて特許局へと職を変え、

その中でもトップクラスの重要な専門官となった。

 

これらの就職により結婚するための余裕が出てきた彼は

最初の結婚相手にもある同期生のミレーバと出会う。

2人の間には子どもが出来、

順調に家族も増えていった。

 

しかし、そんなアインシュタインの幸せにも陰の差す日がやってきた。

1914年8月、

ドイツとイギリス・ロシア・フランスの間に宣戦布告されて勃発した、

第一次世界大戦である。

 

彼自身は1901年に中立国スイスの市民権を得ていたため、

直接戦闘に巻き込まれることはなかった。

でも彼は、

戦争で無意味に人が殺されていくことに憤りを感じ、

関係するすべての国の科学が損害を受けることを悲しんだ。

 

1915年、

アインシュタインは「ヨーロッパ人への声明書」に署名した。

この声明書は、ヨーロッパの文化を大切に思うすべての人々に対し、

戦争でお互いを傷つけ合うのでなく、

ともに平和に暮らすことを目的とした国際間の連盟をつくろうと

呼びかけるものだった。

 

このように、アインシュタインはこれ以降、

死ぬまでずっと、

平和と正義のための運動を続けた。

 

年をとるにつれて、

彼は物理や科学以外の

他の興味あることにも時間を割くことが多くなっていった。

哲学書を読むこと、そして音楽の演奏と鑑賞だ。

加えて、

友人たちとの議論を楽しみ、

自分の考えに共鳴してくれる科学者仲間と、

まめに手紙のやりとりもした。

 

そのように時間を使うようになったが、

人勢の残りの歳月、

その後も多くの時間を使ったのは「研究」であった。

「統一場理論」と呼ばれるものである。

(※詳しくはググってください。)

 

結局、残りの半生をかけたこの研究は完成せずに終わるのだが、

その後もさまざまな科学者たちにより

今尚その理論は研究されている。

 

アインシュタインは

科学上の業績に対して、

国際的な賞が次々に与えれていった。

そしてそこで手に入れた名声や権力、名誉、そして富、

これらはすべて平和主義や人道主義の運動を援助するために

利用されたのだった。

 

また彼は元来のシオニスト、

つまりユダヤ人であるため、

それらの地位向上の運動にも積極的に参加した。

 

しかし1930年代になると、

ヒトラーをはじめとするナチズムにより、

数多のユダヤ人が殺害、迫害された。

その数は1933〜45年までの間で

実に600万人以上にも上った。

 

アインシュタインは

この出来事にひどく、ひどく、心を打たれた。

またそのナチスの攻撃により、

自らの命や、家族の命まで危険にさらされた。

 

それにより、彼は、自分の政治的見解をも変えてしまっていた。

彼はこの頃、戦争は絶対にいけないと思えなくなっていたのだ。

ヒトラーの政策があまりにも恐ろしいものだったため、

アインシュタインは、

どんなことをしてでもそれをやめさせなければならない

と確信していた。

 

世界が武装解除し、

戦わないことを選択することが

彼の理想だったが、

いまの時世にあっては、

そうした理想を嫌々ながらも捨てなくてはならない

という結論に達したのだ。

 

当時、彼はこう書いている。

 

「組織された力に対抗できるのは、

組織された力だけだ。

私はそれが残念でたまらないが、

それしか方法はない。」

 

アインシュタインの心がそのように変わったのは、

ドイツで毎日のように起こっている残虐行為のニュースが

当時避難するために暮らしていたアメリカにまで届くからだった。

 

アドルフ・ヒトラーが権力を握ってからというもの、

ドイツ国内のユダヤ人の置かれている状況は、

想像を絶するひどさになっていた。

 

ヒトラーは、熱気を帯びた演説や集会で、

ユダヤ人に対する憎しみをかきたてた。

 

ドイツは、いわゆる「アーリア人純血種」の故郷であり、

ユダヤ人、ジプシー人、その他の少数民族や宗教的に少数派の人たちのいる場所はない、

というのだ。

 

ヒトラーとナチ党員たちは、

アーリア人以外の人間を全て抹殺するべきであるという決定を下し、

それをドイツ国家の問題に関する

「最終的解決」だとした。

 

アインシュタインをはじめ、

大勢のユダヤ人が国外へ逃れ、

隠れ家に篭った人たちもいた。

 

でも、それさえもできないユダヤ人たちが、何百万人といた。

 

そういう人たちは、

家畜用の貨物列車に乗せられ、

強制収容所に運ばれて、

拷問にあったり、

飢え死にしたり、

強制労働で死ぬまで働かされたりしたのだ。

働けない人たちはガス室で殺された。

 

それらが積み重なり、

600万超えるユダヤ人が殺されたのだ。

 

そしてそのようなことが背景となり、

アインシュタインは、

ナチズムと戦うために

自分の科学的知識を全てつぎ込んだのだ。

 

1939年8月、

彼はアメリカのルーズベルト大統領に手紙を書き、

最新の科学的発見から、

ドイツが原子力を利用した新型兵器を開発する可能性があると説明した。

 

そして1941年、

ルーズベルトは、

アメリカの政府の科学者たちに

世界初の原子爆弾を作るよう要請した。

 

アインシュタインは

アメリカ海軍の、

高性能爆弾開発の特別顧問に任命されたのだ。

 

のちにアインシュタインは、

もしドイツに原子爆弾を作る力がないということが

分かっていたら、

アメリカに原子爆弾を作らせようなどとは

しなかったのに、

と言っている。

 

そしてその言葉の通りに、

戦争が終わるやいなや彼は、

国際的な平和団体をつくるという

以前からの目的に立ち戻り、

世界中から原子爆弾を廃絶するよう、

一生懸命に説得して回ったのだった。

 

事実、周知の通り、

そうしてアインシュタインの提言によりつくられた原子爆弾は、

当の根源であるドイツではなく、

我が国、日本の広島と長崎へと投下され、

1945年、

第二次世界大戦は終わったのだった。

 

彼の願いは、

「世界の政治機構をつくりなおして、

国家間で争うようなことを永久になくすこと」だ。

 

「それが『文明と人類を救うただ一つの道』なのだ。」

と彼は言った。

 

またアインシュタインは、

原子力の研究で発見されたおそるべきエネルギーは、

破壊する力としてではなく、

世界を救うために利用するべきであると信じている。

 

こうして晩年のアインシュタインは、

自由と正義のための活動を続けたのであった。

 

 


 

♦︎アクションプラン

 

・真理に目を向ける

(世の常識だとしても違和感を感じたら己の中に存在する真理を追求する)

 

 

・近代化や、科学の力は、それらの影響をよく考えて、人類のため、地球のためになるように使う

 

 

・国家間での争いを無くし、世界中の子どもたちが一度に笑えるような世界をつくる

 

 

終わり。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。

 

 

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